2009/11/07

タバコ芸

大学生になって酒を飲むことを覚えた私が、一時期熱中したのは宴会芸である。当時は居酒屋の勃興期で、ぼちぼち酒の飲み方が多様化してきたという話は以前にも書いた通りだが、まだまだ飲み方を知らない私はしょっちゅう悪酔いしていた。「これではイメージが悪い・・・」と焦った私は、当時流行していた宴会芸を磨くことで挽回を図ろうとしたのだ。
特に私が練習したのは、「タバコ芸」である。煙で輪っかを作ることから始めて、吸い殻を天井に付着させるワザ、火玉を指でつまむ秘技、空きボトルに火の粉のベールが降りる幻想的な技術などを次々にマスターした。なんせ、凝り性なのである。
その中でも最大の荒技は「燕返し」というやつである。これは短くなったタバコ(もちろん火がついている)をくわえて、上の歯と下唇を支点にして「口の中で縦に」回転させるという大技である。私は血のにじむような練習を重ね、このワザを取得した。今でもできると思う。
もちろん、こんな事で合コンでモテることはないのだが。

時を経て、私はとっくの昔に禁煙した。まさか煙草を吸うという行為が、ここまで嫌われるとは思っていなかったな。せっかく習得した技術も、無駄もいいとこである。まあ、それ以前にこんな事をやる方がバカそのものである。

さすがに当時の私はキワモノ芸だけでは座が持たないことぐらいは知っていて、合コン用に用意していたのには、別の話題もある。それは懐古ネタを振ることであって、しょっちゅう「君はワタナベのジュースの素を覚えているか?」とかやってたような気がする。
この辺の芸風は、あまり進歩がない。困ったことである。

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2009/11/02

ワカバ会報

「ワカバ会報」というタイトルで記事を書くのはこれで4回目であるが、みなさんのお手元にも数日前に届いていると思う。名簿を管理し、半年に一度、会報を届ける事務局には本当に頭が下がる。同期会の開催でも、本当にお世話になってます。

私が最近気にしているのは、実は「誰か死んだりしてないよね?」という、やや不謹慎な(というか、不穏な)確認である。同期はともかく、気になるのは先生方である。先生方の消息を見たりしていると、網羅性がそれほど高くないようなのでやや不安であるが、「あとで知って後悔する」様なことのないようにしたいのだ。一応、ワカバ会には「何かあったら連絡して下さい」とは言ってあるんだが・・・

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2009/10/23

用賀

私が現在在住しているのは世田谷の用賀(玉川台)というところである。お世辞にも空気がいいとは言えないこの一帯であるが、環八を挟んだ瀬田の一角に住宅展示場がある。
実はこの場所は、80年代にはアメリカ村と言われていたところだ。ヤンキーが集う大阪のアメリカ村とは異なり、ここには当時まだ珍しかったファミレスが集中して建っていた。イエスタデイとかプレストンウッドといった今ではなくなってしまったファミレスや、当時としても特別仕様だったデニーズが夜闇に浮かぶと、本当に映画で観たアメリカ'60sの世界そのものだった。それはそれは夢のような光景だったことを覚えている。深夜でも車がひっきりなしに出入りしていたものだ。もう一軒、すかいらーくがあったのだが、これは何故か完全なノーマル仕様で「すべての店が満員だった時に仕方なく行くところ」であった。これらのファミレスでは異様なほど駐車場の間隔が狭く、限界ぎりぎりまで車を詰め込んでいたものだ。さらに蛇足であるが、首都高用賀出口の脇には異様な高級感のあるラブホテル「カンパネラ」がやりたい盛りのカップルを出迎えていた。

当時の大学生は、週末の夜中になると誰かの車を使ってこの場所に集まり、だらだら過ごすのがよしとされた。そして第三京浜を使って夜明けの湘南海岸にサーフィンをしに出掛けるのである。つまりアメリカ村は携帯電話がなかった時代に「テニファーサークル」御用達の、待ち合わせのメッカだったのだ。第三京浜に乗ったとたんに、BGMをユーミンに変えるのがお約束である。
私はもちろんサーフィンはやらないが、三田の同期とファミレスで「だらだら過ごす」ぐらいは当然のようにやったことがある。調子に乗って、当時はこれも珍しかったコーヒー飲み放題を飲みすぎて気持ち悪くなるのである。そしてサーフィンの代わりに、免許取り立てだった私たちは大黒ふ頭へ運転の練習に出掛けるのだ。もちろん大黒ジャンクション建設前であり、ただただ、のんびりした埋め立て地であった。当然、夜中に車なんか走っていないから運転の練習にはうってつけである。
私は大黒ふ頭に向かう途中の鶴見にあった化学工場が偉容を誇っていたのを覚えている。それを見て、私たちは「高度成長期の重化学工業の遺跡だ」とか聞いたような口を叩いていた。まさかアメリカ村が遺跡にすらならない存在であるとは思いもしなかった。

アメリカ村は前述の通り、気づいたら住宅展示場になった。問題のラブホテルも壊されて、ただのマンションに変わった。すかいらーくはマクドナルドになった。デニーズだけがかろうじて残っているんだが、当時を知る人はもう少ないだろう。何でもあるはずのネットをいくら探しても、当時のアメリカ村の写真が見当たらないのだ。こんな事は珍しい。

そんなことを思い浮かべながら、私は日曜になるとこの辺を自転車で走ったりもするんである。
ときどき泣きそうになる、というのは少しオーバーだが。

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2009/10/16

食えない!

年齢とともにしみじみと感じるのは、食べられる量の減少である。
決して食欲がなくなったわけではない。食べたい気持ちや食に対する好奇心はむしろ増加傾向にあるんだが、体力がついていかないのだ。さらに言っておくと、食の好みも決して変わったわけではない。「急に食べ物の好みが変わった」とかしみじみ言い始めるようになったら、もはやお迎えも近いのだが、その傾向は見受けられない。
特に私が感じるのは酒を飲んでいる時である。つまみに料理をつついているんだが、これが食えん。昔は大皿を競って食べていたはずなのに、前菜だけで腹一杯。むしろ少量の前菜だけをたくさん種類食べたい。

その一方で、酒の強さは意外にもそれほど変わっていない。バカ飲みすることはさすがになくなったが、酒そのものへの耐性はむしろ強くなっている。
私と一度でも飲んだことのある人は知っていると思うが、私は最初のビール一杯で異常なほど顔に出る。だが、それ以降、どんどん醒めていくのだ。特に相当飲んでも判断力を失わないことに関しては、自信がある。ある面、イヤな飲み方である。

この年になると、病気自慢をするやつがぼちぼち出はじめる。いずれは血圧や血糖値を気にして食事制限しなければならないだろう。あと何年、こんな調子で飲んだり食べたりできるのだろうか。

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2009/10/10

パソコン

関数電卓が普及したころ、ようやく登場したのがパソコンである。
私の記憶が確かであれば、最初に発売された本格的なパソコンはNECのPC-8001であった。厳密に言うとワンボードコンピューターとしてはTK-80というキットが先なのだが、キーボードがついたまがりなりにもパソコンの形になったものは8001が最初で、これは1979年の発売だから私たちは高校2年生であったはずだ。
外部記憶装置もないシロモノでデータを保存しようとすればカセットテープレコーダーを使うしかなかったし、ディスプレイは普通のテレビに接続したはずである。もちろんインターネットの接続なんてまだまだ先の話で、ゲームしかやることはない。それ以外にはせいぜい、BASICで適当なプログラムを組むしかなかったはずだ。プリンターはむちゃくちゃ高いし、フロッピードライブなんか本体(168,000円)より高かったと思う。
そのゲームも、コンピューター雑誌(「bit」ってあったなー)の巻末についていたBASICのソースコードを打ち込むのが一般的だった。信じられんが、本当だ。
理系学生だった私は店頭に置いてあるパソコンを、いじって遊ぶのが精一杯だった。もちろん買えないし、買っても使い道なんかなかっただろうし。

10 N=1
20 PRINT N
30 N=N+1
40 GOTO 20
こんなBASICのプログラムを打ち込んだものだ。そして
RUN
ってやると、画面いっぱいに数字の羅列が無限ループする。店頭での迷惑行為の一種だが、たぶん、当時の理系学生だったら一度はやったことがあると思うぞ。

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2009/10/01

ノンアルコールビール

道路交通法の改正に伴い、最近はノンアルコールビールが各社から発売されている。
だがみなさん、「あんなモノは昔はなかったな」とか思っていませんか?
そんなことはありません。ああいう製品は、昔からあったけど気がつかなかっただけです。

私がノンアルコールビールを初めて飲んだのは、高校3年生の遠足の場である。行き先は確か、東武東上線の森林公園だったと思うが、その売店で売られていたのだ。名称を「ビレル」という。バカ高校生だった私たちは、調子に乗ってジュース代わりに飲んだ記憶がある。さすがに覚えていないが、結構高かった(少なくともジュースよりは高かった)んじゃないかと思う。缶の見た目はビールそのものであり、わざとみんなの前で飲んだりした。今から思えば(いや、その当時でも)相当なバカである。なお味は、大変においしくない。
しかもその誤解を招く空き缶をわざわざ持って帰って、しばらく教室に飾っていた記憶があるのだ。授業に来る先生方が、見て見ぬふりをしてた。さすがに、ビールの空き缶(っぽいモノ)だけでは生徒を叱ることもできない。
そうやってわしらは先生を困らせることにエネルギーを注いでたのだが、宮崎正晴先生だけは(何故か)その「ビレル」の正体を知っていて、呆れていたのを覚えている。

その森林公園への遠足は新宿で解散になったと思うが、喫茶店に寄って(例によって)煙草を吸いながら本物のビールを飲んでから帰ったはずである。
ゴルフ帰りのオヤジか、っての・・・

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2009/09/22

有名人

私が某福島県いわき市で仕事をしていた時に、ときどき聞かれて閉口したのが「東京の話」である。別に東京に行くのに誰かに断らなきゃいけねー訳でもないんだから、自分で行って経験してくればいいのに何だそりゃ、である。
しかも聞かれる内容というのが「表参道を歩いていると前から芸能人が歩いてきませんかぁ〜?」とか「二谷友里恵と友達って本当ですか?」とかいうものであるのだよ。確かに二谷友里恵は慶応だが、んなわけねぇだろと、否定してたら、「そういうことはしてはイケナイ」と批判された。「田舎者の夢を壊してはイケナイ」のだそうだ。なるほどな。

ただ、つらつらと考えてみるとこの答えはあまり正しくない。芸能人や有名人と遭遇する機会はそこそこあるが、ほとんどの場合、誰だかわからないというのが正確である。もちろん化粧やファッションのせいで一般人に紛れて認識できない、というのもあるのだが、「芸能人オーラ」に気づいても誰だかわからないということが非常に多いのだ。私が現在住んでいる用賀の街角では、この現象が頻繁に起こる。まあ、私もオジサンだからな。

オジサンであるからして、この年になって有名人と会ったことを自慢するというのはただのバカであるが、ちょいと自慢したくなることもないわけではない。私が路上で遭遇した有名人でさすがに驚いたのは、森喜朗元首相である。
ある年の年末、瀬田の路上で孫の手を引いて散歩していたんだが、尋常ではないオーラを発していた。さすがに首相引退後だったから、穏やかに孫をあやしていた姿が微笑ましかった。

私はそれで結構、森のファンになってしまったのだが、そのことには若干の教訓を含んでいる。
人はコワモテの表情しか知らない人間に直接会って「意外にフツー」だったりすると、一挙に警戒心を解いてしまうのだな、ということだ。某巨大宗教組織のトップの某なんか、そのへんの技術が天才的に上手である。
小沢一郎なんかもそうだな。多分、実際に会うとものすごくいい人なんだと思う。みんな警戒しながら会いに行っても、帰りにはころっと懐柔されてしまうのだろう。その結果、誕生したのが「小沢ガールズ」なんだろうと思う。
そこにイデオロギーなんかが関係ないのが本当に情けない。だってそこには旧社会党も自民党出身もいるのだ。やっぱ、日本の政治は情に流されるんだな・・・。

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2009/09/18

記者会見

のりピーの記者会見、如水会館でやってたな・・・
私たちが同期会をやったのはテラスに面した松風の間だが、多分同じフロアの奥の宴会場である。あの大騒ぎじゃ、他のお客さんにいい迷惑である。もっともいい記念にはなると思うが。

シティーホテルの宴会場だったら「何様だと思っているんだよ」とか「婚約披露じゃあるまいし」とかツッコミも入るだろうが、如水会館だったら「ここしか会場取れなかったんだろうな」って誰しもが思う。
仕切りのきめの細かさに感動すら覚える。すげー。

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2009/09/13

自分の名前

何度か書いているが、このブログと同期会HPにはアクセス解析の機能がついている。このため、だいたいどんな単語を検索してここに来るのかがわかる。開設以来、3年以上になるのだが、私の名前を検索してたどり着く人間はほぼ皆無である。
それが寂しいのかというと、そうではない。googleやyahooで私の名前を単純に検索しただけでたどり着くほど甘くはないのだ。たぶん、そういうことは今までに何度もやられているはずだが、もう一個ぐらい(例えば「三田高校」とか)はキーワードが必要である。
それに簡単に検索されて欲しくはない。そもそも、仕事上の関係者がここに来てもらっては困る。特にヒマな若い連中に来ていただくのはごめん被りたい。平凡な名前をつけてくれた両親に感謝したい気持ちでいっぱいである。もっとも、このブログには極力、個人名を記述しないようにしてはいるんだが。

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2009/09/05

のりピーに学ぶ、私がダメな理由(わけ)

のりピー事件も一段落した感があるが、つくづくと社会的に示唆に富んだ事件であると思う。
まず第一に、みんなが「私はこう思う」と考えたことが、実はみんな同じであることに驚いた。同じ材料を与えられると、人は同じことを考えるものだな、と。
私はこれを見て、何事も同じように動くだろうと思ったな。私が考えた具体例は株式投資で、日経から同じ情報を与えられた素人投資家は同じ行動を取って、違う情報を持っているプロに食い荒らされて大損するというメカニズムしかないのだな、と思った。
もう一つは、事件が後半にさしかかった時、世間の人が「これはこうに違いない」と思ったことが実現されると、とてつもないカタルシスを産むという事実に驚いた。
これは多分、今回の総選挙と同じ構図なんである。なるほど。

それと最大の発見は「魅力あるコンテンツは、ものすごい需要を掘り起こす」という事実である。
私たちが高校生や大学生だった頃には、スポーツだったらプロ野球とか、芸能だったらベストテンランキングといった誰もが注目するものがあった。気がついたらそういうものは失われていて「テレビ離れ」や「活字離れ」が進行しているんである。ところが国民全員が注目するような「魅力あるコンテンツ」というものは実は決して消えてなくなったわけではなくて、そいつは隠れているだけなんだ、ということがしみじみとわかったな。あるいはそれを人工的に引き起こすのが、オリンピックでありサッカーW杯なんだろうね。

ただ、私にはすごく納得できなかったことが一つある。
それはのりピーが婚約した時の記者会見で「彼は私の知らないことをたくさん知っている(から、それが魅力だ)」と言ったセリフである。「知っていること」で惚れられるんだったら、私は断じてモテモテでなければおかしいのである。いやぁ、納得できんですよ。
私がそうでないのは、つまり私の持っている知識は「ものすごく見当違いである」からであるとしか考えられないのだ。これはヒジョーに不快である。

「彼の好きなところ」は素直に「全部です!」って惚気るか、正直に「かっこいいから」って言えばよかったのに。
ま、そういう相手じゃなかったんだろうな、と気がつけば分析している私である。

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2009/08/28

プロの仕事

カラオケに行くと、例によって80年代アイドルの歌しか歌わない私であるが、しみじみと感じることはアレンジ(編曲)という作業の難しさである。メロディーを思いつくことは正直誰にでも出来るんだが、それをお金を取れる楽曲に仕上げるのにはプロのアレンジャーの力が必要だと思う。コーラスやパーカッションをどこでどのタイミングで入れるのか、どの楽器でコードを入れるのかを歌手の力量にあわせて考えるのは相当に難易度が高い。80年代には、歌唱力に激しく難があるアイドルだって決して珍しくはないのである。

今までにも何度か書いているが、そのアイドルの中で松田聖子は突出した実力を持っていた。しかし残念なことに、私たち一般人は当時、誰もその実力に気づくことはなかったのだ。これは悔やまれる事実だ。
しかし、曲を作っていたプロであるスタッフは絶対に彼女の実力を知っていた。今から見ると、技巧を凝らした実験的な曲がアルバムには多数収録されているし、松田聖子はその曲を歌いこなしているのだ。彼女の実力が明らかになった今では、知る人ぞ知る名曲として認知されている。私はカラオケではそういう曲ばかり歌う。ものすごく嫌がられる。

逆の例として、某MDMA関係の押○学の個人バンドのライブをYoutubeで見ることができるんだが、これがまた典型的な素人の仕事である。見ればわかる!

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2009/08/21

ガンダム

私の周囲の若い子が、例のお台場のガンダムを見に行ったらしく、携帯で撮った写真を見せてくれた。それで「中村さんだと、世代的にドンピシャじゃないですか?」って聞かれた。私は「うーん、そうには違いないんだけど、自分としては思い入れのあるのはどっちかっつーとヤマトだな・・・」と答えたな。
この辺の時代背景は非常に微妙で、世代が違うとほとんどわからないだろう。

最初のガンダムが放送されていたのは1979年だから、私たちは高校2年生である。正直言って、その頃の高校生にとっては「アニメはもう、卒業だな。ふ」ってなもんであって、リアルタイムで熱中して見るのは、ちょっとした「変わり者」であったはずだ。
その頃にはもちろんまだ「オタク」という言葉は存在していないが、高校生になってまでアニメを見るものではなかったな。だからこそ、子供の頃にちょっとませたガキが見るものであった「宇宙戦艦ヤマト」が支持を受けていたんだと思う。
ちなみにこの数年後、あだち充の作品を中心にしたラブコメものが流行ることになり、これを「何となく知って」いないと話題に取り残されたりもしたんだが、私たちが高校生だった頃にはこの種のものはまだまだ子供向けとして認知されていたように記憶している。

今はオトナがアニメやアイドルに熱中していても別に珍しい光景ではなくなった。ただ、オジサンとしては時代の幼児化が少し気になったりもするな。

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2009/08/15

川村個展2009

行ってきた。しかも2日続けて。

当然、そのあとは飲み会なんだが、いい話聞いたなー
どこでこの話を放出しようか、迷うほどである。もちろん、ヤバくてここには書けない。

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2009/08/10

危機管理

一人前の大人になるということの条件の一つとして、危機管理がきちんとできるか、というのがあると思う。この年になればそれなりに修羅場をくぐっていると思うんだが、誰でも直面せざるを得ない危機は親の死だろう。特に男の子の場合は、こいつを仕切ってナンボ。きちんと出来るか出来ないかでその人の評価は決まると言い切っていい。
もちろん、私たちの人生を待ち構えている危機は数限りない。会社がある日突然、消滅してしまうことだってないとは言えない。家族の介護なんか、スパッと死んでくれる以上に大変だ。事故を起こしたり犯罪に巻き込まれる可能性だってゼロじゃない。そういう危機は、人の数だけあるんだと思う。だが、そういう危機を乗り越えることは確実に人を成長させる。修羅場をくぐったやつは、やっぱり違う。

私の思うに、情死した愛人を放置して遁走した某男はワルぶっているだけの小物。一方で、旦那に罪をなすりつけて姿を消し、子供の世話をテキパキと手配した上で衣料食料まで準備して、薬物反応が消えるのをじっと待っていた某女は危機管理のプロである。さすが「や」の付く商売の娘。感心している場合じゃないか・・・

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2009/08/05

室内楽部のOB会

(管理人さんが何か言いたそうですが、それとは全く関係のない話。)

先週の土曜日、8月1日に三田高室内楽部のOB会なるものがあり、顔を出してきました。

室内楽部?そんなのあったっけ?吹奏楽部と違うの?という人もいると思いますが、われわれの入学と同時に三澤寿喜先生が赴任してきて、数人の弦楽合奏+αとして細々と始め、ウチの代が卒業する頃はまだ「同好会」だったのが、その後拡大して「クラブ」格になり、木管・金管楽器も加わって「管弦楽部」となり、今はまた少し縮小して「室内楽部」になっている、というクラブです。一番多かったときには1学年に22人入部して、部員だけでドヴォルザークの「新世界」交響曲までできるようになっていた、と聞いて、最初の零細軍団だった頃のメンバーとしてはちょっとビックリ。最近少ないと言いつつ1年生が9人も入ったそうなので、堅実にやってる方だと思います。

卒業アルバムに写っているのは、宮地君、中尾さん、岸見さん、叶多さん、三ヶ尻の5人ですが、時期によっては細見君や新谷さん、ほか何人かいたような気もします。

私の一つ下の河西君というのが声をかけてくれて出たのですが、ほかは8つ下とか10歳下とかばかりで、一番下の現役1年生は64回生(=31歳下)。部活の様相も零細団体時代とメジャー団体時代では感覚も違って、何だか別のサークルにお邪魔してるようでした。

校舎の外観はあまり変わらず。ただ食堂横に耐震補強工事の大きなバッテンが見えました。校舎の壁の時計が3時20分あたりで止まっていましたが、あれはいつからかな?定時制は今はないそうです。音楽講堂も昔と同じ。ただ舞台の上が色んな部の楽器置き場のようになっていましたが。ちなみに「フォークソング部」は今は「軽音楽部」というそうです。

長くなってしまいました。ちょっと懐かしい会だったので。
では。
mika

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2009/08/04

つまんない人

高校時代や大学時代、自分の周囲を見渡してみても「遊んでいる人と遊んでいない人」っていうのは極端に差があった。私は地味な理系だったから、大学時代にほとんどディスコ通いなんかをした経験はない。もちろん、女の子にはモテたかったし情報だけはジャブジャブに供給されていたから、遊んでみたいという願望はあった。だけど遊び方も知らなかったし勇気もないヘタレだったから、指をくわえてみているしかなかったものだ。
だから、その頃の自分は多分「つまんないやつ」と思われているだろうな、という自覚があった。だから、同級生や周囲にきれいな女の子がいてもろくに話もできない学生時代を過ごした。
時は女子大生ブームだったから、ますます遊ぶことに対する敷居は高かったな。

そして世はバブルとその崩壊を迎え、自分たちは30代を過ごすことになる。
40代に突入したあるとき、私は自分自身が「つまんなくない!」と思った瞬間があった。気がついたら、みんなおんなじ。遊んでいるから面白い、というわけじゃないことに気づいた。
気がつくのが遅すぎである。

まーその、40代になってつまんないやつ、というのはそれはそれで存在する。私はそいつは30代の過ごし方如何であるな、とは思う。
30代を子育てで過ごした人を妙に尊敬する、今日この頃。

続きを読む "つまんない人"

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2009/07/27

26時間テレビ

週末、フジテレビ系で島田紳助司会による「26時間テレビ」が放送されていた。深夜に「さんまのラブメイト」という恒例コーナーがあるんだが、見た人はいますかね?私は根性も体力もないので見ていないんだが、明石家さんまが好みの女の子をカウントダウン形式で紹介するという、どうでもいい(深夜らしい)コーナーである。
今朝になって適当に検索してみるか上記のリンクを見てみるとわかるのだが、1位に輝いたのは綾瀬はるかである。しかし、私が反応したのは10位にランキングされたコレである。

10位 沖縄のBEGINライブで見かけたマイコさん(遠野舞子)

多分、誰も知らないと思うが、この人は三田高校の卒業生なのである。
10年ぐらい前にはそこそこテレビで見かけたんだが、そのままどこかに行っちゃったかと思ってた。当時はグラビアアイドルで、結構キワドい画像が今でもネット上にころがっている。
三田高出身の芸能人は大山のぶ代と高橋洋子以来ずっといなかったので、頑張って欲しいものだよ。沖縄のライブでいったい何をやってたんだか、詳しく見ればよかったな。

(追記)
YouTubeで発見。多分数日で消されちゃうから、見るなら早く。
絶賛だった・・・

(追々記)
消されました。残念(7/28)

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2009/07/22

日食

皆既日食だが、各地天気が悪くて残念であるな。

私の記憶に残っているのは、1978年10月2日に起こった部分日食である。この日付は先ほど調べたんだけど、私はそのとき高校1年で初めて日食というものを見た。私はイタイケな理科系少年だったから、この日食を結構楽しみにしていたのだが、周囲では誰も興味を示してくれなかったことを覚えている。何故か一人での下校途中に、三田国際ビルの背景に大きく欠ける太陽を私は見た。最大食は16:33だから、記憶と合致している。
調べてみると東京ではこの後何度か、部分日食が観測されているはずであるが、私にはその日食だけが妙に強い記憶となって残っているのだ。
誰か覚えているかな?

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2009/07/16

夏、終了

ご苦労様でした。

http://www.tokyo-hbf.com/pastgame.php?sel=18&y=2009&m=7&d=16

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2009/07/14

軽く驚く

http://www.tokyo-hbf.com/pastgame.php?sel=18&y=2009&m=7&d=13

ま、下の方までスクロールしてどうぞ。
「昭和のニオイ」がするんだが・・・

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2009/07/12

飲み会

三ヶ尻社長企画の飲み会に出た。
例によって、高校時代全然知らない人同士で盛り上がってたな。むちゃくちゃ楽しかったです。三田の飲み会は「そういうもんである」と知っている人は来る。

最後はタクシーになってしまったが、給料とはそういう為に使うのである。後悔してないです。いや、本当だってば!

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2009/07/03

インターネット接続

海外出張のため、1週間ほど留守にしてました。
私が電子メールをいうものを使い始めたのは、パソコン通信の時代であった1992年のことである。@niftyserve.or.jpというアドレスを使っていたが、or.jpというドメインをバカにされたのを覚えている。当時、大学研究機関(特にIT関連)でメールの使用が始まって、ac.jpというアドレスが当たり前だったからだ。その後、非常にIT化が遅れていた私の業界(化学・生物系)にもアドレスが浸透した。私が職場のまともなアドレスを取ったのは1996年のことだ。
しかし、当時、海外では個人的にメールを見ようとすれば、パソコンとモデムを持参して現地の提携プロバイダーに接続するしかなかった。これをローミングって言うんだが、かなり特殊な技術と知識、それと変圧器が必要だったので「海外ではフツーはダメなものである」とされていた。それ以外には、現地の端末でWebメールを見るしかなく、この場合は日本語フォントを(原則、その場で)インストールする必要があった。どっちにしたって、前もっての準備が必要で面倒だったし、100%接続できる保証はなかったよ。
今時は、ちょっと気の効いたホテルだったらロビーで無線LANが使い放題である。有料であることも多いが、街中に出れば「野良電波」を拾ってただで接続することもそれほど難しくない(但し、この行為はドイツでは違法)。
それ故に、世界のどこでもメールを読めるのは当たり前になってしまった。これはつまり、どこに行くにも無線LAN付きのパソコンを持っていくのが当然ということを意味している。重いし、機内に持ち込まないと不安だし、手荷物検査は面倒だし、いいんだか悪いんだかわかりませんな。

私たちが同期の某君との協力で、MLを立ち上げたのは1996年である。当時はものすごく特殊な技術が必要だった。現在はニフティーのサーバーを使っているから、多少楽になったものの、当時の方式を踏襲しているから、管理はそこそこ面倒である。最近は個人情報保護の問題もあるしな。
しかし、当時からメールの利便性に気づき、MLの創設にたずさわった(私を含めた)10名ほどの人をほめて欲しいとは思うぜよ。

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2009/06/25

手抜き

手抜きなんだが、妙に面白かったので引用。

トリビアジャーナル941

筆者は朝日新聞を引退した記者らしく、文章が上手なんだが内容も微笑ましい。942以降も順に読み進めることを推奨。

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2009/06/18

1Q84

村上春樹の新刊本が売れている模様であるが、私は現物をまだ読んでいない。ぼちぼち書評などで内容が少しずつ明らかになっているのを目にするのだが、1984年というのは特別な年であることは前から言ってる通りである。私はすごい。しかも内容も見透かしていたあたりは、自分を褒めてあげたい。私に欠けていたのはそれをストーリーとして組み立てる力であるが、それができればこんな仕事はしていない。当たり前である。

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2009/06/11

通信手段の進歩

そんなこんなで、携帯電話は一人に一台持つ時代になり、私たちはカメラで撮った写真をメールに乗せてやり取りする時代に生きている。ちょっと前まで携帯電話は「通話する道具」だったのに、気がつきゃそういうハイテクノロジーを誰もが使う世の中である。
もちろんそれ以前の時代にはポケベルがあり、文字情報や数字をやり取りしていた。バブル期なんか、ついこの前のような気がするが、その頃はポケベルしかなくって「14106」とか送ってたということを忘れてなるもんか。ちなみに「14106」は「アイシテル」って読むんだぞ。今から思うと「バカにしてんのか?」って感じだよなっ。
一方、固定電話網でファックスという画像情報のやり取りが普及したのは1981年だから、私たちが高校を卒業した年である。それも、用紙が「ジ・ジ・ジ・・・」と出てくるようなシロモノだったはずだ。「一体、それまではみんなどうしてたんだろ」って思うが、考えてみれば一般人が高速画像通信をする必要なんかなかったのである。

では、プロはどうしてたかというと、専用回線による無線通信(マイクロ波通信)をしていたはずである。私たちが子供の頃には都内のあちこちに鉄骨のタワーがあって、パラボラアンテナがいっぱいついていた。新聞社や通信社はあれで情報通信をやっていたはずである。いつの間にかなくなっちゃったな。
さらにそれ以前はどうしていたのかというと、驚くなかれ、それは「伝書鳩」なのである。
記者が支局に写真のネガを送ったりするのに、伝書鳩が最も早いという時代が長くあったはずである。有楽町にマリオンが出来たのは1984年だそうだが、それ以前にあそこにあったのは日劇と朝日新聞社の本社である。そして朝日新聞社の最上階は鳩舎であったことを知っている人は、もはやあまりいないだろう(ただし、鳩舎が実際に使われていたのは1961年までらしいが)。

現在も都心の駅などで、鳩が糞害を起こしているのを見かけることがあるが、あれこそは実は逃げ出した伝書鳩の末裔である。
その鳩こそが、うち捨てられた情報インフラなのであるよ。

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2009/06/08

携帯電話

最近の多機能化した携帯電話、みなさん使いこなしていますか?
私は携帯にsuicaと電子マネー、航空機の搭乗機能だけは入れてあります。これだけやっても、携帯の機能の一部しか使っていないというのが情けない。テレビ電話どころか、カメラ機能もほとんど使ってないし。未だに携帯メールはむちゃくちゃ遅い。情報弱者である。
だが、suica機能はちょっと自慢である。自動改札を見ていても、携帯で通過する人は20人に1人もいないと思う。クレジットカードを使っていつでもチャージできて便利なのだが、私がこの機能を使っているのにはそれ以上の理由がある。

地方から出てきた(特に名古屋の)友達に見せびらかすためである。

実は全国の鉄道・JR系ICカードで、携帯で使えるのは今のところsuicaだけなのである。pasmoもダメ。今なら使っていると確実に自慢できる。くくく。
携帯で改札を通過すると、ものすごく羨ましそうな顔をされるぜ。
みなさんにも是非オススメしたいが、コドモ扱いされるリスクは承知して下さいな。

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2009/06/01

ニットタイ

週末にユニクロに行ってみたんだが、私はある衝撃的な商品を目にした。
ニットタイである。
ポリエステルの太い糸で編まれたネクタイなんだが、私は高校時代に愛用していたシロモノである。触ってみたら、化繊独特の冷たい触感が激しい既視感を呼び起こして、背筋がぞくっとしたくらいである。

高校生だった私は、ウール製であった制服のネクタイを嫌って濃紺のニットタイをしていた。私の周囲の人の多くも愛用していたから、卒業アルバムの集合写真では沢山のニットタイを確認することができる。ニット製だから締め付け感が少なく、裏表もないので雑に結んでいることができた。懐かしい。

今でもタンスを探せばあると思うのだが、もう忘れかけていたのだ。こんなもん、今さら流行らせるなよなあ・・・

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2009/05/26

パブ記事発見

この妙なヨイショ記事は、一体どういう意図のもとに書かれたのだろう。

http://d.hatena.ne.jp/morubasumomo/20090506

妙に力の入った校長の功績なんだろうか・・・

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2009/05/23

首都圏

東京志向の強い私であるが、実は地方暮らしが長い。学校を卒業してから、福島県いわき市で1年、その後東京に戻ってきてからつくばに5年半と名古屋に2年半いたことがある。首都圏に戻ってきてから、実はわずかに1年ちょっとしか経っていないのだが、もちろんどこにいてもしょっちゅう帰っていたから、首都圏のことはよく知っているつもりだった。
そんな私が本格的に東京に戻ってきて、どうしても理解できないことが2つある。

一つは個人商店が異常に生き残っていることだ。
地方都市では巨大ショッピングセンターができると、周囲数キロの個人商店(特に八百屋・魚屋・肉屋などの食料品店)は壊滅的な打撃を受けて完全に営業が立ちゆかなくなってしまう。私のいたどの都市でも、商店街というものはもはや存在していなかった。そういう意味でスーパーマーケットが早くから普及していた首都圏では、もっと早い時期に商店街が潰滅しているはずである。
しかし事実は逆だ。私の現在の住居は世田谷、職場は川崎市の住宅街にあるが、どちらも駅前の商店街はもちろん、住宅街のど真ん中に唐突に商店街が出現する。知ってる人もいるかもしれないが、渋谷には街のど真ん中に八百屋があったりもするのだ。古くからの街だけではない。私鉄沿線の新興住宅街にも商店街は駅ごとにあって、しかもそこそこ繁盛しているのである。実際自分でも良く買う。
よくよく見てみると、それなりに品揃えに工夫してたり意外に安かったりもする。首都圏では移動に車を使わないという要素はあるにせよ、こういう個人商店がそこまで地元だけを相手にし、商売が成り立つ理由がイマイチよくわからない。

もう一点は「子供が外で遊んでいる」という、これまた意外な事実だ。
その川崎の住宅街では、ああた、子供が路地でドッジボールしてるんですよ。付近にはちょっとした緑地があるんだが、この前、シロツメクサで作った花輪が落ちていたときには、わが目を疑った。今時、そんなことして遊ぶのか。世田谷の家の近所は昼間見ていないけど、小学生が自転車で走り回っているのは実によく目にする。さらにここには、駄菓子屋のようなものがまだ残っている。
私がいた、つくばは計画都市だから公園がものすごく整備されていた。だけど昼間通りかかっても、子供が遊んでいるのを見ることはほとんど無かった。皆無と言っていい。決して子供が少ないわけではない。公務員宿舎がたくさんあるから町内会の行事などがあると、子供がワラワラと出てくるのだ、親と一緒に。私はそんな光景を見ながら、イマドキの子供は外では遊ばないんだな、としみじみとした落胆を覚えていたものだった。その事情は、名古屋でもあまり変わりはなかった。
世田谷も川崎も近所に大規模マンションがあるから、子供の絶対数が多いという事実はあるにせよ、私の理解を超えている。よくわからん。

一言で言うとですな、都会には「昭和のニオイ」がするのだ。つまり懐かしい風景は実は都会にこそ残っている、という極めて意外な結論に達するのである。
私たちは21世紀になって科学技術や流通が進歩した時代に生きていて、かつそれを担う責任ある世代にいる。そして都会というものはその「文明」をもっとも享受できる場所であるはずであり、「文明」によって伝統や地域性は失われ、ひいては人間性が喪失されることが懸念されていた。よくそんな話が、国語の教科書に載ってたじゃないですか。ところが、少なくとも現状ではそれは大嘘なのだ。
私は自分が得たこの結論が、私たちにとって一体どういう意味を持つのか計りかねているのだ。何が変わって何が変わっていないのか、私にはよくわからんです。

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2009/05/17

ジュリー

最近、あからさまに私たちの世代をターゲットにしたリバイバルやカバーが目につく。バブルを経験した私たちに購買力を期待しているのだろうが、そんなにマーケッティングというものは甘くはないぞ。子供の頃にオイルショックを経験して、欲しいものも買ってもらえなかった恨みは忘れていないからな。
それはともかくとして、いろいろな音楽が再び取り上げられ、懐メロとしてオジサン・オバサンになった70〜80年代の歌手がメディアに登場する中、明らかにそういう取り上げられ方を嫌っている人がいる。
沢田研二である。

GS時代の沢田研二は私もほとんど覚えていないが、「勝手にしやがれ」で颯爽と再登場した頃のことはよく覚えている。男の目から見てもかっこよさは際だっていたし、恐ろしいことに男性ヌードの写真集まで発売されたはずだ。誰の心にも当時の活躍は刻まれているから絶対に需要はあるはずなのだが、懐メロ歌手として現在メディアに露出することはない。
私の思うに、沢田研二はそういう出演依頼を断っているのだと思う。昔の夢を壊したくないからではないだろう。ごく稀にテレビに出演すると、中年から老年にさしかかった姿を見せつけてくれるのだ。私は腕に浮かんだ老人斑に衝撃を受けたことがある。「今を生きたい」と考えているのだろうね。ちょっと考えさせられる生き方だ。

私の記憶が確かであれば、沢田研二は最初に武道館公演を行った日本人である。TOKIOを歌っていた頃は、本当に大きく見えた。実際には意外と身長が小さいんだが。あの衣装は「タケちゃんマン」そのものでもあるが、あれを受け入れた時代の勢いというのがしみじみと懐かしくもある。

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